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闘争を求めるって何ですか

アーマードコアと言えばといえるほどに広まった言葉がある。

 

「〇〇は闘争を求める」のコピペシリーズ

 

広まっているのは良いが、ところでこれなんで闘争なのかってことに自分自身でちょい気になったので想い出を振り返りながら考えてみた。

 

 

アーマードコアとはどんなゲームか

カスタマイズが出来るロボットアクションゲームで有り、一種のシミュレーションでもある(と勝手に思っている)。僕は4、fA、V、VDしかやってないので他はよく分らんとデス。

共通するのは、荒廃もしくは衰退し続ける世界で、傭兵として雇われた主人公が戦乱へとその身を投じていく的な話である。

まぁ、詳しくはウィキペディアにある。以上。

 

 

キーワードは戦い

長々書くこともないので本題に。

4作しか機会がなかったがアーマードコアをやってきて感じたことは、生きるために戦うとか戦うことが好きだからと言う理由でキャラも含め主人公達はAC

に乗っているわけじゃないなということ。

AC乗り達には様々な人間がいた。金のため、世界のため、国のため、誇りのため、信心のため、人類のため、自分のため、それはもう自分勝手に生きている人間ばかり。だが、これのどれもが戦いを欲していたかと言えば、そうではなかった。主人公サイドに至っては、世界を再び歩ませる、もしくは戦いを止めようとするほどだ。それなのに何故闘争を求めることがこれほどに重要視されるのか。

 

アーマードコアでは、武力により歴史が変わってきた。世界政府の崩壊数えられるほどのACによって起こったことや、タワーに眠る技術を求めて技術革新・技術奪取が盛んになった頃からも明らかだ。

そんな世界で絶対的基準というものは何か。答えはもちろん武力=戦いである。圧倒的武力による世界レベルでの秩序崩壊、そこからの社会形成までのほぼ全てがACという武力とそれを支える複数の企業により行われた。

全てが武力という基盤の上で形作られた世界において武力とは絶対なる正義の基準となったのだろう。

その証拠に、ACの力を恐れた企業達は首輪を繋げACを圧倒できるさらなる武力を欲した。このような世界では、平和と言う言葉の意味が現実と大きく異なるのだ。

 

平和と言うことは、最も強い力が全てを制御すること。

 

ここが今回の肝である。平和というモノは、大凡の場合、社会的正義の基準として判断に大きく影響するモノである。現実の社会では出来るだけ平和的な解決をできないかという面で議論し、考える事が多いことからもこれは大きく間違ってはいないはずだ(正義の反対は正義の話はまたこんがらがるのでひとまず置いておく。)

 

VDでは外交手段である言葉などもはや飾りにしか過ぎず、傭兵とJによる一騎打ちにより命運が掛かっていた。

Vでは、主任が人類の可能性として戦いを提示した。

fAでは、プレイヤーが数億人もの命を奪うことで人類種の天敵として世界の敵となる。

 

ブルー・マグノリアは、戦場こそが自分の生きる場所だと人間の身体を捨てて散っていった

 

全て、命よりも戦いをという理念の元に生まれたものである。

戦いしかなかった世界に生きた人間にとって、戦場というのは故郷だ。

この世界の根底に武力があることで、一般人でさえ戦場に生きている。この世界では戦いから逃げることはできても捨て去ることは悪なのだ。

マギーは戦場から身を引いたが、戦場に魂を囚われたままで最後にはブルー・マグノリアとして心も体も正常とは言い難いものになった。しかし、それはオペレーターをしているときよりも遙かに生を感じた。戦場は故郷だからだ。ホームシックの人間が故郷に又帰ることで解放されるように、戦場にもどることで全ての枷から解放されたからだ。

死を誰よりも嫌った男が手にしたモノがACだった。死にたくないからお前が死ねという概念はあのとき初めて享受したが、レジスタンスという戦いを真っ向から否定しなければならない立場の人間この答えに辿り着いたのは、それこそ根底に武力を肯定した世界でなければ出せなかった答えじゃないのかと考える。

 

生きることは戦うこと。戦いたいから生きるのではなく、生きているから戦い、叩くから生きている。

現実の社会では早々根ざすことはないこの価値観は、恐らくアーマードコアでは絶対的な基準となっているのだと考える。

こう考えると、身体は闘争を求めるという言葉は、単に欲望を満たすという意味ではなく、生きる上で酸素を取り込むために呼吸をすると言うレベルでの意味だろう。

生きることは戦うことだが、そこにどんな意味があるかは誰にも分らない。戦場に残るモノは何もないからだ。

好きなように生き、好きなように死ぬ。

正に戦場に生きる人間達を象徴する言葉だ。戦いの中で何を為すかは自由だし、なにか意味を見つけたら、そこで終わっても終わらなくてもいい。全てが当人の自由意志の元に戦場に立つことが肯定されている。

 

生きるから戦う。だからこそ、心ではなく身体が闘争を求める。