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ジュラシック・パークには夢が詰まってる

みんな、恐竜は良いぞ。(挨拶)

 

 最近、旧友と何人も短期間で会う機会があり、その中でもジュラシック・パークとマーベルを一緒に見てきた奴と深夜までファミレスで語り合った。かれこれ7年近い仲ではあるが、今思えばそいつと漫画みたいに夜のファミレスで熱く情熱的に語るなんて夢にも思わなかった。発端は、ジュラシック・パークインディ・ジョーンズを見たことあるという人が身近にあまり見たことないので話す相手がお互いしかいないという所からだ。その日はTRPGの集まりの打ち上げも兼ねていたので、ドリンクバーでカフェインを摂取しながら語り明かした。あまりにも興奮していたせいで店を出てからも駐車場で30分ちょい色々な話題でずっと話し込んでしまったのは我ながらバカだったなぁと思っていたり。

 ということで(?)、せっかく熱が入ったのでスピルバーグ監督作品、ジュラシック・パーク第1作の好きなところをまとめようと思う。

 

「Welcome to Jurassic Park.」

 ジュラシック・パークと出会ったのは幼稚園の頃、確か親父が見せてくれたような勝手に拝借して見たような。それくらい記憶があいまいな頃にあの映画を目にした。そのころ、幼稚園では絶賛の恐竜ブームで、図鑑を持ってるやつは一種のステータスだった。幼稚園の恐竜図鑑は常に戦争を起こすくらいの取り合い。ものすごく長い名前を頑張って覚えればヒーローになれて、絵が描ければ神だった。それくらいあの頃は、今はもういない巨大生物という浪漫に憑りつかれていた。半ば”憧れ”に近い感情もあったと思う。

 そんな浪漫と憧れを抱いてた幼稚園児がこの映画を見れば、夢中になるのは当たり前だ。遺伝子工学により生み出されたとか、利権が絡んだ裏取引とか難しい部分はどうでも良い。そのときは恐竜がそこにいる。それだけで良かった。

 ジュラシック・パークとは創設者のジョン・ハモンドが自身も思いを馳せた恐竜への夢を形にしたものである。そこには、遺伝子工学の技術で現代へと舞い戻った恐竜が人間の管理の下に娯楽として存在していた。残念ながら、最後には自らの傲慢さと過ちから閉園することになってしまうが、それは間違いなくスクリーン越しに僕を魅了し、恐竜に抱いた夢と現実的な恐怖を見せてくれた。恐竜の咆哮が響き渡るたびに心は震えたのを今でも覚えている。

 ティラノサウルス(レクシィ)がトイレに逃げた男を食い殺すシーンは余りにも強烈だ。その大きく恐ろしい顎で咥えられて、男は最期の時まで末期の悲鳴を上げる。恐竜は確かにかっこいいが、劇中でコントロールから外れたレクシィは本能の赴くままパークを駆け、食物連鎖の頂点として大きな恐怖を見せてくれた。恐竜が蘇ったという夢だけではなく、恐竜という種への恐怖というものをこの映画は同時に見せてくれた。

 

 

ジュラシック・パークに何を見たか

 遺伝子工学により生み出した恐竜の卵を見せるハモンドに対して、マルコムは終始批判的な立場を取りながらこんな言葉を残している。

 

 「Life finds a way.(生命は必ず道を探す)」

 

 ジュラシック・パークでは命を取り扱う作品となるため、人間は命を生み出しても思い通りにすることは不可能だということをコンセプトとして描かれる。この言葉は、恐竜を現代に蘇らせ、管理しようとしたジョン・ハモンドへの批判である。人間は決して神ではない。地球に生きている命の一つに過ぎないということを何度も見る内に、幼い思考で僕は捉えた。

 しかし、幼稚園から成長し、自分で意味を考えることが出来るようになった時、別の意味で捉えるようになったのだ。人間の視点で見れば、これは人間の傲慢さを暗に批判したものなる。だが、パークに生きる恐竜の目線から見るとこれは全く別の意味を帯びてくる。

 パークの恐竜は、個体数の管理のために全てが雌で構成されている。子を産み、管理できない数に増えてしまうことを防ぐためだ。しかし、パークの恐竜たちは自らの遺伝子を変異させることで性転換をし、種の存続の道を作り出した。管理下の元、自由な種の存続ができないという絶望的状況で生命は変化し、希望を生み出した。どんなに絶望的な状況でも希望を見出すという、余りにも夢に溢れた意味をここに僕は見たのだ。

 

 ジュラシック・パークは先述の通り、命を管理しようとする人間の傲慢さと無責任さを書いたモノだ。パークには大きな夢が輝いている。しかし、強く輝くからこそ、そこには人間の大きく深い影がある。生命の希望と夢だけではなく、決して目をそらせない現実もまた内包していたのが、僕にとってのジュラシック・パークだった。

 

おわりに

 読まれることを考えずに好き放題めちゃくちゃ書いてとても気分が良いが、一応公開するモノなのでまとめに入ろうと思う。まず恐竜とは当たり前だが現代にはもういない。そこら辺にいる鳥畜生くらいしか名残を見ることはない。現代では決して見ることは出来ない。ある種の喪失感に似たものが小さい僕を掻き立てていた。ジュラシック・パークはそんな喪失感を埋めた映画だ。スピルバーグ監督の手によってスクリーンに蘇った恐竜は確かに僕が妄想の中で描いたもの、それ以上の命として描かれていた。人間の傲慢さと命の強靱な生きようとする本能、それを受け入れる世界。古い映画ではあるが、現代への命に対する倫理観と責任へ警鐘を鳴らした映画でもあると思う。

 僕はただ本当に恐竜が好きなだけでこの映画を高く評価し今も好きでいる。しかし、根本のテーマにはただ好きなだけでは無視できないものがどうしてもついて回っている。しかし、それでもこの映画に僕は今でも恐竜というもう見ることは出来ない生命への夢を見た。間違いなく、ジュラシック・パークには夢が詰まっている。